「世間」というものは

 読んでいる雑誌「SPA!」で、お気に入りの連載の一つがこれ!「ドン・キホーテのピアス」という連載で、鴻上尚史氏が書いているのです。
 内容はざっとこんな感じです。
 「世間」というものをすごくうまくあらわしているなーーっと(笑)。

ドン・キホーテのピアス 732
「民主圧勝。その裏に、日本人特有の「世間」あり」
鴻上尚史(SPA! 2009.9.15)

 「他人だらけの関係は『社会』」だ。「けれど、将来または現在の利害関係を基にしてつながっているのが『世間』」だろう。

 「この『世間』は、あなたと利害関係があるので、基本的には、あなたのことを考えてくれて」いる。
 「あなたのことを考えながら、もちろん、あなたの意志とまったく反対のことを提案したり」する。「けれど、基本的にはあなたのことを考えている」。
 「それは、江戸時代、村落共同体という『世間』、つまり、村という『世間』がセイフティーネットとして機能していた時、村の決定は、ときには、ある人物に激しい労働を要求することになっても、その奥底には、その人物のことを考えているという暗黙の了解があったということ」。
 「だから、私たちは、『根はいい人なんだよね』という、指示の裏にある“気持ち”を読む習慣がついて」いる。「どんなことを言っても、基本的には『いい人に違いない』という願望がある」のだ。
 「つまり、私たちが生きている『世間』は、基本的には私のことを考えているんだ、という信仰がある」のだ。

 「人の意見に押し流され、反対するためにはかなり思い詰め、悲壮な決意で反論しようとするのは、『世間』は基本的には私の味方」なのだから、「その味方の人に対して反対するのは、とても、失礼だし、ひょっとしたら間違ったことかもしれない」という思いがあるからだ。

 「『社会』は、基本的に利害が対立したり、無関係だったりする人から成立していて、私たちはそういう世間に生きているんだから、相手が言ったことに反対するのも反論するのも当然だし、何も間違ったことでもないし、気合を入れないとできないものでもない」。「自分と対立するかもしれない人の意見にNOを言うのは、当然なこと」だろう。

 「日本人の場合、『世間』は自分たちのことを考えてくれているのだから、変革する必要はない」。「改良することはあっても、根本から変革するものではない、という意識」が働いている。
 「同時に『変革なんかできるわけない』という無力感や、『変革なんか叫ぶ前に自分のやることをやれよ』という滅私奉公感も生」む。

 「そうやって、日本の『世間』は続いてきた」。