あなたは目標なり、ミッションなり、ものなり・・・を完成させようとする。
そうして、出来上がってきた。そして、あなたはそれを完成させた。果たして本当に完成させたのか。
「完成」とは出来上がったもの。
だけど、完成の判断というのは、どこにあるのだろうか。
完成がわかりやすいのは、検査であるだろう。ある一定の基準をクリアすることが一つの完成形である。
しかし、そうした数値や基準がないものもある。そして、それらの完成は、人の感性なり、個性なり、感覚なり、経験なり・・・といろいろな要素が絡んでくるものだ。
例えば、デザインはどうだろうか。そこに完成とするところには、いろいろな判断が出てくるだろう。ある人がOKだとしても、違う人はあまり気に入らないかもしれない。
そうしたものはなかなか目に見えないもので、感覚や持ち前のセンス、経験などが大きな要素になってくる。
しかし、画期的なデザインを発案する者もいるから、その人はすごい。いろいろなアイデアが浮かび、結ぶついて、一つの作品、デザインが出来上がる。そして、それらは一つの完成されたデザインとなる。
それらをデザインする側として、生産する側としては、どこで完成かということは、気持ちの問題であるのかもしれない。もちろん、他の人の条件なりも入ってくるのだろうが。
しかし、基準やルールがあまり明確にされていないものは、完成という判断をするのがなかなか難しいものだ。
それでは、基準やルールがわかっていれば、完成は完璧かというと、そうでもない。その基準やルールがなぜ、存在するのか。何を完成させたいのか。どういう方向に向かっているかなど、物事の本質をわかっていなければいけない。もし、それがわかっていなく、しかも、基準自体がおかしければ、思わぬ方向に向かい、大変なことになるであろう。
基準やルールが明確なものとそうでないものに共通することは、本質を理解することだ。何をしたいのか、何が求められているのか、など方向性・方針、テーマがきちんとわかっていれば、完成という判断は近くなる。
しかし、この判断の力を養うことは難しいものだ。
力をつけるためにも、目標に向かって、進むことだろう。