小田原城の天守閣にのぼってきました。(下)

 5月6日(土)、小田原城(神奈川県小田原市)に行ってきました。

 日本のお城で難攻不落といわれた小田原城。私は9年前の2008年に行ったことがあります。その小田原城に再び行ってきました。

 2008年の時は、たしか天守閣を見ることはできませんでした。今回は天守閣に入り、最上階からの小田原の街の眺望を楽しむことができました。

 「小田原城本丸」の説明板がありました。

小田原城本丸

 小田原城本丸は、東西83間(約150m)、南北63間(114m)ほどの規模をもち、その西端に天守閣、中央にはかつて本丸御殿が存在しました。本丸の周囲は、石垣と土塀がめぐらされており、東南と北側に門が設置され出入りが制限されていました。東南側の門は、本丸の正門にあたる常磐木門(ときわぎもん)、北側の門は、裏門にあたる鉄門(くろがねもん)とそれぞれ呼ばれています。
 天守閣は、元禄16年(1703)の地震で、小田原城内の他の建物とともに倒壊・焼失しましたが、宝永3年(1706)に再建されました。以後、江戸時代を通じて存続しましたが、明治3年(1870)の廃城によって取り壊されました。現在の天守閣は、昭和35年(1960)に宝永年間の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリート造で復興されたものです。
 本丸御殿は、寛永11年(1633)に徳川家光が上洛に際して宿泊するために建設されたもので、元禄16年(1703)の地震により焼失して以来再建されませんでした。
 元禄年間の姿を伝える宮内庁図には、本丸の南側に七本松と呼ばれた松が描かれていますが、現存する巨松(おおまつ)は、七本松の最後の一本で樹齢400年を越えるものです。
 小田原城本丸一帯は、昭和34年(1959)、国史跡に指定され、貴重な文化財として保護・保存されています。

平成23年3月 小田原市

 「小田原城天守閣」の説明板。

小田原城天守閣

 「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。江戸時代までは「殿主」「殿守」などとも記され、「天守閣」と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。寛永11年(1634)には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。
 元禄16年(1703)の大地震で、天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失しますが、天守は宝永2年(1705)に外観三層内部四階の「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる櫓群として再建され、明治3年(1870)の廃城・解体までその姿を保ちました。
 現在の天守閣は、昭和35年(1960)に市制20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図(設計図)や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
 そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。天守閣内部では古文書や甲冑・刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、小田原城の歴史を紹介しています。
  標高約60mの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。

 天守閣に入ると、人の行列!? さすがにゴールデンウィークですね。時間の関係上、ゆっくり見るまではいきませんでしたが、ちょこちょこと小田原城に関する資料や展示物を楽しめました。

 最上階は、やはりお城からの眺望が見所ですね。小田原の街の眺望が楽しめました
西







 豊臣秀吉が小田原城攻略でたてた、一夜城の方向。

 最上階にも展示がありました。

天守閣
【昭和35年復興】

鉄筋コンクリート造 3重4階
本瓦葺き 総瓦枚数63,440枚
延床面積 1,822m2
総工費 8,000万円

 江戸時代に造られた模型や引図を基に、昭和35年(1960)に鉄筋コンクリート造で復興されました。三重四階の天守に付櫓・渡櫓を付した姿となっていますが、現在は内部五階で、最上階の高欄付きの廻廊も復興に際して新たに付けられたものです。
 現在の天守閣の中では、甲冑や刀剣、絵図・古文書、考古資料など、小田原城や小田原北条氏の歴史を伝える資料を展示しています。
(資料より)」


 天守閣を見終わり小田原城を後にして、小田原駅から東京へ戻りました。

(終わり)

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