小田原城の天守閣にのぼってきました。(上)

 5月6日(土)、小田原城(神奈川県小田原市)に行ってきました。

 日本のお城で難攻不落といわれた小田原城。私は9年前の2008年に行ったことがあります。その小田原城に再び行ってきました。

 小田原駅から歩いて10分ほど、小田原城址公園がありました。

 その前に、駅から向かっていると、「史跡小田原城址」を見かけたり、「小田原城三の丸元蔵跡第Ⅱ地点・三の丸元蔵第2地点の発掘調査」(の説明板)や「弁財天曲輪跡」(の説明板)がありました。

 そうして、小田原城に到着。堀がありました。

 「史跡 小田原城跡」の説明板。

小田原城

 小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えれています。16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として次第に拡張されました。豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。
 北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど、北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。
 明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、売却された後、次々と解体されました。城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。
 現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が、国の史跡に指定されています。また、本丸を中心に「小田原城址公園」として整備が続けられています。

昭和35年(1960) 天守閣復興
昭和46年(1971) 常磐木門再建
平成9年(1997) 銅門復元
平成21年(2009) 馬出門復元
平成28年(2016) 天守閣リニューアル
          常磐木門SAMURAI館オープン

 近くの広場では。

 「馬屋曲輪」や「銅門 土塀模型」や

 小田原城歴史見聞館は時間の都合上、入らず。

 石段や堀など。

 「小田原城と小田原合戦構造図」の説明板がありました。

天正18年(1590)4月、戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲されました。

●時代を画した小田原合戦
織田信長の死後、北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、天正15年(1587)からは、決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました(総構)。また、各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。豊臣軍は武器や食料の調達・確保にも長け、豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。そして、3ヶ月の築城の末、北条氏直は小田原城開城を決意します。合戦の終結により、豊臣秀吉による天下統一が成りました。

●戦闘の経過
天正18年(1590)3月1日、豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。東海道を進む本隊は、山中城(三島市)を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。また、毛利輝元(本人は京都留守居)等の水軍が物資輸送にあたり、前田利家率いる北国勢が上野国(群馬県)方面から北関東に侵攻しました。
これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。長期戦を覚悟した秀吉は、早川(小田原市早川)西方の山上に陣城を構え、6月26日に本陣を移します。本隊の猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、別動隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、7月5日に城を出て降伏しました。

●小田原合戦の意味
北条氏は、中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。そして、その本城である小田原城は、堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、「土の城」でした。かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり「石の城」でした。
北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、戦国時代は終わりました。小田原合戦は、日本の歴史が中世から近世へと動く、歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。
また、小田原合戦後、参陣した武将は国元に戻ります。そして、自国を整備し、城郭の普請を行いました。普請された城郭の中には、駿府城(静岡市)や御土居(京都市)、岡山城(岡山市)など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。

 「小田原城 常盤木門」があったり。

 電車が走っているみたいで、乗れるみたい(笑)。

 城内ではゴールデンウィークということもあり、多くの人で賑っていました。

小田原城址公園

 小田原城は、15世紀中頃に大森氏が築いた城を前身とし、北条早雲(伊勢宗瑞)に始まる小田原北条氏の本拠となって以降、関東支配の拠点として整備されました。そして、豊臣秀吉との小田原合戦を前に周囲9kmにおよぶ総構を構築し、日本最大級の城郭となりました。
 北条氏滅亡後には、徳川家康の家臣である大久保氏が城主となります。小田原城は、北条氏時代の姿を継承しつつも、改修されられながら用いられていきますが、大久保氏の改易により破却されることとなりました。その後、稲葉氏が城主となりますが、寛永10年(1633)の地震により、城も城下も潰滅的な被害を受けます。そのため、稲葉氏は小田原城を大規模改修し、小田原城は現在見られるような近世城郭としての姿に生まれ変わりました。
 明治維新を迎えると、明治3年(1870)に小田原城は廃城となり、建物は解体・売却されます。城跡は陸軍省の管轄を経て御用邸として用いられることとなりますが、大正12年(1923)の関東大震災を期に神奈川県・小田原町(小田原市)へと払い下げられることになります。
 現在、小田原城の本丸・二の丸一帯に相当する城跡公園は国指定史跡・都市公園に指定されており、往時の姿を取り戻すよう、史跡整備が進められています。

常盤木門
【昭和46年再建】

木造
渡櫓門

 小田原城本丸の正門にあたり、最も大きく堅牢に造られています。2つの多聞櫓と渡櫓門から成る枡形門で、前面には「坂口門」がありました。本丸の名松「巨松」になぞらえて、「常盤木門」の名が付けられたと言われています。

銅門
【平成9年復元】

木造
渡櫓門

 馬屋曲輪から二の丸に通じる位置にあり、二の丸の正門にあたります。入母屋造瓦葺きの渡櫓門で、土塀で周囲を囲んだ枡形門の構造となっています。渡櫓門の大扉は、「銅門」の名の由来となった銅版・銅鋲で美しく装飾されています。

馬出門
【平成21年復元】

木造
高麗門

 「馬出門」は馬出口に位置する門で、高麗門形式の馬出門と内冠木門から成り、土塀で周囲を囲む馬出枡形を形成しています。門の復元に際し、馬出門の北側の石垣には国指定史跡早川石丁場群で出土した石を転用しました。

御用米曲輪
【平成23年から整備中】

 江戸時代には幕府の米蔵が位置する場所でした。発掘調査の結果、戦国時代の建物や池・庭園の跡等が見つかり、戦国期小田原城の中心の一つであったことがわかりました。
(資料より)」

(続く)

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