木造太田道灌坐像が安置されていた、稲付城(跡)

 2016年11月26日(土)、赤羽に行く用事があり、せっかくなので、久しぶりに城巡りをしてきました。

 インターネットで調べてみると、赤羽駅周辺に「稲付城)」があるのを知り、行ってきました。

 駅から約5分ほどのところに、稲付城跡(東京都北区)はありました。今は静勝寺になっているみたいです。
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東京都指定文化財(旧跡)
稲付城跡
北区赤羽西1-21-17

 稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
 昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
 また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
 この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられえ街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
 道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷五ヶ村を所領しました。
 明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。その後も江戸時代を通じて太田氏は、大田道灌の木造を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩薩寺としていました。

平成13年3月
東京都北区教育委員会

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 階段をのぼっていくと、境内がありまして、そこに、「木造太田道灌坐像」がありました。
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東京都北区指定有形文化財(歴史資料)
木造太田道灌坐像
帰宅赤羽西1-21-17 静勝寺

 右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の座像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年(1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に製作されました。
 太田道灌(1432~1486)は室町時代の武将で、扇谷上杉家に仕えて30余度にも及ぶ合戦に参加したといわれていますが、長禄元年(1457)4月に江戸城を築いたことで知られています。
 像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
 像は、道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木造として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に帰宅の指定有形文化財に指定されました。

平成8年3月
東京都北区教育委員会

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 夕方近くに行ったので、境内への階段はちょっと怖いような(笑)。階段をあがっていくと、普通に境内があり、見れた感じです。

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