京都に行ってきました~二条城~(上)

 4月25日(土)、26日(日)の2日間、京都に行ってきました。京都に行く目的は家族の用事。そして、せっかく京都に来たので観光も。

 25日の午後からは「元離宮二条城」を観光してきました。

 二条城は、1603年(慶長8年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として造営し、三代将軍家光が、伏見城の遺構を移すなどして、1626年(寛永3年)に完成したもので、家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻など、いわゆる桃山文化の全貌を見ることができます。
 1867年(慶応3年)十五代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は朝廷のものとなり、1884年(明治17年)離宮となりました、その後、1939年(昭和14年)に京都市に下賜され、1994年(平成6年)にはユネスコの世界文化遺産に登録され、2003年(平成15年)に築城400年を迎えました。

 門は工事中で、囲いで覆われた状態でした。ちょっと残念ですが、仕方がありませんね。大きな写真で門はこんな姿ですよってありました。

 

舊二條離宮はもとの二條城を以て之に充てられたるものにして昭和14年10月離宮を廃止せられ特別の恩召を以て京都市に下賜あらせられたり
二條城は慶長年間徳川家康の築造に係る徳川光寛永3年9月 後水尾天皇の行幸を仰ぎたり 慶応3年10月徳川慶喜此の城より上表して 大政を奉還せり明治元年正月朝廷此の城を収めて大政官代を為し文明治4年6月及岡10年1月の雨度 明治天皇臨幸あらせられたり明治17年7月離宮を定められ二條離宮と穪せられる明治28年5月 明治天皇の行幸あり大正4年11月 大正天皇即位禮の際當城内の大饗宴場に行幸あらせられたり 城構は平城に属し本丸、二之丸等より成り周圍には濠を繞らし本丸には天守臺、石垣等よく舊規模を存し其の郭内には明治26 7年舊桂宮邸より移築せる御殿あり二之丸には宏壯雄大になる二之丸御殿ありて其の結構比類罕なり

番所

徳川将軍不在時の二条城は、幕府から派遣された「二条在番」と呼ばれる武士たちが宿直・警備していた。一つの組は50人で構成され、二条城には2組が常駐し、毎年4月に他の組と交代していた。
この番所は、その在番の詰所の一つで、寛文3年(1663)に建てられたことがわかっており、間口十間(19.6m)、奥行三間(6.1m)の切妻造りの建物となっている。現存する城郭の番所は全国的にも少なく、貴重な建物である。

 

 世界遺産「古都京都の文化財」の説明がありました。

 二条城は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機構)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。

 二条城は、慶長8年(1603)に徳川幕府により京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営され、その後寛永3年(1626)に大規模な拡張・修復工事が行われました。現在の二の丸御殿は基本的にはこの時のもので、このほか本丸内には弘化4年(1847)に造営された旧桂宮御殿が移築されています。
 二の丸御殿は武家風書院造を代表する建築で、その主要部は遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各殿舎からなり、これらが二の丸庭園の池に沿って雁行形に配されています。内部は、床の高さや天井の形態、座敷飾り等によって各室に差異をつけながら配されており、また各室は部屋の目的に応じて障壁画が描かれ、欄間彫刻、飾り金具、釘隠し等が豪華に飾られるなどの意匠が凝らされています。
 この御殿の西に大広間から眺められるように造られた二の丸庭園は池泉廻遊式の庭園で、池の法面や護岸に多くの豪華な石組を配するとともに、池の中に3つの島、奥に三段の滝を設けており、その力強い意匠は豪壮な建築群とよく調和しています。

元離宮二条城

 慶長6年(1601年)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。
 京都の守護と上洛の際の宿所がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。家康の征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行われた。
 その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、三代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっとも拡大され、五層の天守閣もそなえていた。しかし、寛延3年(1750)、雷火のため天守閣を焼失、また、天明8年(1788)には、市中の大火にあい、本丸殿舎、櫓の多くを焼失した。
 文久3年(1863)、十四代将軍家茂が入城。攘夷の実行を誓い、また、慶応3年(1867)には、十五代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。
 明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26、7年には、本丸御殿跡に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。
 城構は、平城で、本丸・二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの濠をめぐらし、東西約480m、南北360mあり、国宝二の丸御殿をはじめ、台所・御清所・東南・西南両隅櫓、東・北大手門・土蔵・本丸御殿などの重要文化財がある。

 二の丸への門はすごかったです!

 

 二の丸御殿(国宝)は、武家風書院造の代表的な御殿建築で、通侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の6棟が東南から西北にかけ雁行形に並んでいます。建物面積は、3,300平方m、部屋数は33、畳は800畳余りあるそうです、各部屋の障壁画は狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じて描かれています。また欄間の彫刻、飾金具、長押に打たれた花熨斗形の釘隠などは、金飾あざやかに豪華を極めています。また、御殿東北には、台所・御清所があり、いずれも重要文化財に指定されています。

 二の丸御殿の部屋は、
遠侍 柳の間:車寄を入った正面の部屋は、障壁画により「柳の間」と呼ばれ、目付役が控え、来殿者の受付をした所
遠侍 一の間~三の間:3部屋に分かれており、昇殿した大名の控室です。虎の間ともいわれ、障壁画は狩野門下の筆によります
式台 式台の間:昇殿した大名が老中職と挨拶を交わした所。将軍への献上品は、この部屋でとりつがれました
大広間 三の間:部屋の正面上にある欄間の彫刻は、厚さ35cmの櫓の一枚板を両面から透かし彫りにしたものです。また、大広間と黒書院の部屋廻りの柱の上にある金具は花熨斗形の釘隠といい、銅の地金に金を鍍金したものです
大広間 一の間・二の間:将軍が諸大名らに対面した部屋です。特に将軍が座る一の間は、最も豪華に造られており、張台構・違棚・床の間・付書院を備え、天井は、四方が丸く折り上がった「折上格天井」の中が、もう一段折り上がった「二重折上格天井」になっています。また、障壁画は、狩野深幽の作といわれています。
黒書院:将軍と親藩及び譜代大名が内輪で対面した所です。大広間と同じ書院造ですが、少し小さくなっています
白書院:将軍の居間と寝室です。二の丸御殿の中では最も規模が小さく、障壁画は居間にふさわしい水墨画になっています
大広間 四の間:この部屋の障壁画「松鷹図」には、桃山時代の様式を取り入れた、巨大な松と勇壮な鷹が描かれています
式台 老中の間:3部屋あり、老中が控えた部屋です。一の間と二の間は芦雁図で、三の間は柳鷲図です。長押の上は白壁で質素に造られています
遠侍 勅使の間:朝廷からの使者を迎える時の対面所しょされています。障壁画には、青楓や檜、桃などが描かれています
がありました(案内によると)。

 廊下を歩いている鳥の声のような音が聞こえていて不思議でした。これは床板を踏むと音がなるため、「うぐいす張りの廊下」といわれているそうです。

 釣鐘がありました。

 この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。鐘は二条城と所司代に設置され、二条城では東北隅の艮櫓跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し鐘楼を建て、鐘が設置されました。
 幕府の政務であった二条城と所司代は幕末の混乱の中、薩摩・長州など朝廷側の動向に備え、鳥羽・伏見の開戦など非常時の連絡をつげ、明治に入ってから二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていました。

 二の丸庭園(特別名勝)は、古来からの造園術にしたがい、池の中央に蓬莱島、その左右に鶴亀の島を配した書院造庭園で、小堀遠洲の作と伝えられています。庭は、1626年(寛永3年)、池の南側に後水尾天皇の行幸御殿が建てられた際に改造されたといわれており、主に大広間、黒書院、行幸御殿の三方向から見られるよう工夫されているそうです。

 

 

 

特別名勝 二条城二の丸庭園

 池を中心とした書院造庭園であり、庭には三つの島を置き、四つの橋を架け、西北隅に滝を落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は、変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。
 庭園は、大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間からの鑑賞を想定して造られているが、寛永3年の後水尾天皇行幸の際、行幸御殿が庭園の南側に建造されたことから、南方からの鑑賞も配慮して、庭園南部の石組に変更を加えた形跡が見られる。
 作庭年代については、記録や作風から推察して、1603年(慶長8年)の二条城築城の際にその建築に調和させて造営されたもので、後水尾天皇の行幸の際に、数多くの名園を手がけた小堀遠洲によって一部改修が加えられ、今日に至ったものと考えられる。
 桃山末期から江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示しており、現存する歴史的庭園の中でも最も優れた作品の一つに数えられている。

(続く)

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