京都に行ってきました~東寺~(下)

 東寺五重塔だけではなく、

他にも様々な歴史的建造物がありました。

 金堂は、東寺一山の本堂です。文明18年(1486)に焼失し、今の堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたもので、慶長8年(1603)に竣工しました。天笠様の構造法を用いた豪放雄大な気風のみなぎる桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐・和風の技術も巧みに取り入れています。

 講堂は、天長2年(825)弘法大師によって着工され、承和2年(835)頃には完成しました。
 その後大風や地震で大破し、度々修理を重ねましたが、文明18年(1486)の土一揆による戦火で焼失しました。
 現在の講堂は延徳3年(1491)に再興された建物で、旧基壇の上に建てられ、様式も純和様で優美な姿を保っています。

 

宝蔵(平安時代)

創建当時は、南北二棟存在し、宝物経巻を収蔵していた。長保2年(1000)と大治元年(1126)に焼失して、建久9年(1198)に文覚上人によって再建されたものが残ったとされていたが解体修理の結果、東寺創建に近い頃の建立と考えられる。

 

八幡社殿

 796年創建。平安京と東寺を守護する為まつられたが、明治元年(1868年)焼失、平成3年に123年ぶりに再建。本尊は檜材の一木造りで一本の巨木から弘法大師作と伝えられる、僧形八幡神座像と女神座像二躯の三躯が安置されている。足利尊氏が東寺を本陣としていた時、鎮守八幡宮の神殿から流鏑が新田勢に向かって飛び、勝利を収めた故事は余りにも有名である。

 

重文 潅頂院 江戸時代

 創建は弘法大師の御草創にかかる所であるが、竣工半ばに御入定せられたので、東寺第二祖の実恵大徳により完成。それ以来5度目の修造がなされ徳川三代将軍家光公が弘法大師八百年御遠忌の寛永11年(1634年)に再建したものである。毎年4月21日には弘法大師が「一夜に建立」され、龍神が描くとも伝えられる絵馬の参拝で大変にぎわう。

 

重文 東大門(不開門) 鎌倉時代

 創建年代は未詳。現存の建物は建久9年(1198年)文覚上人の大勧進によって再建。
 建武3年(1336年)6月30日、新田義貞が決死の覚悟で東寺の足利尊氏を攻め、危機に陥った尊氏は門を閉めて、危うく難を逃れることができた故事により「不開門」とも呼ばれている。のち慶長10年に豊臣秀頼が大修理を加えたものと伝えられる。

 

夜叉神堂 桃山時代

東 雄夜叉 本地文殊菩薩
西 雌夜叉 本地虚空蔵菩薩

 最初は南大門の左右に安置されていたが、旅人が拝まないで通ると忽ちその罰があったとされ、中門(現在の金堂前燈籠周辺)の左右に移された。慶長元年(1596年)中門倒壊の後、現在の小堂を建立して安置した。
 夜叉神像は弘法大師の御作とされ礼霊験甚だあらたかで、仏法守護を本誓となすとあり、歯痛を治して下さると親しまれている。

 

毘沙門堂 江戸時代

 天慶2年(939年)平将門の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天立像(現宝物館・国宝)を天元元年(978年)7月9日大風にて羅城門が倒壊の後、東寺に移し食堂に安置したりしたが、文政5年(1822年)現在の堂を建立してお祀りした。創建千二百年記念事業で平成6年(1994年)に修復された。

 

小子坊 近代

 かつて西院大師堂の一面にあり、建武3年(1336年)6月14日より半年間、北朝の光厳上皇は、ここで政務をみることとなり、尊氏は千手堂(食堂)に居住したといわれる。現存の建物は昭和9年(1934年)弘法大師一千百年御遠忌の記念事業として新築。用材はすべて木曽檜を用い、襖絵は堂本印象画伯の筆になり、昭和の代表的な建築物ということができる。

 

八島社殿

 祭神は東寺の地主神とも、大己貴神とも言われる。八島社と言うのはわが国を大八洲瑞穂国と言うところから起った社号である。それゆえこの社は東寺以前より鎮座されており、弘法大師はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門建立成就、方位安全、法道繁盛の祈願をされ、地主神とあがめられたと伝えられる。

 

 小野道風ゆかりの柳がありました。

 

 東寺を後にして、京都駅の方に向かっていると、祭りの様子を楽しめました。

 そうして、京都を後にしました。

(終わり)

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