かつては城塞があったとされる「本郷城」~小石川庭園へ(下)~

 小石川後楽園(東京都文京区)の周辺を散策すると、様々な説明板がいろんなところに設置されていました。

 江戸時代の小石川邸には、後楽園の別園として、中央大学理工学部付近にあったと推定される台の庭(遠山)や、梅林の先に河原書院(後の琴画亭)などがあったが、現在の「後楽園」は、旧書院(現在のドーム付近)付属の小庭園(内庭)と後庭(後楽園)からなり、現在では併せて「小石川後楽園」と総称されている。
 内庭から唐門(昭和20年の戦災で焼失)を経て後庭に入り、棕櫚山を経て右手に大泉水を見ながら時計廻りに巡遊する過程に優れた構成美を楽しむことができる廻遊式庭園である。
  (1)蓬英島を中心とする大泉水とその周辺の海の風景
  (2)西湖堤・渡月橋・大堰川・通天橋を結ぶ川の風景
  (3)清水観音堂・小蘆山・徳仁堂・円月橋をつなぐ山中の風景
  (4)水田・菖蒲田・梅林などの田園の風景
 これらの風景はそれぞれ独立しながらも緊密に組み合わされており、日本や中国の名所などの風景を再現したものといわれている。

 屋上庭園が楽しめました。

 

特別史跡及び特別名勝 小石川後楽園

 徳川御三家のひとつである常陸水戸藩35万石の江戸屋敷である小石川邸は、寛永6年(1629年)初代藩主徳川頼房(1603~1661年)が幕府から76,689坪(253,500m2)の土地を拝領し、更に2代光圀(1628~1700年)の時代に5代将軍綱吉から11,094坪(36,670m2)が加増されて、かつては約29haにも及ぶ広大な面積を有する上屋敷(明暦の大火以前は中屋敷)であった。現在の東京ドームをはじめ、地下鉄丸の内線後楽園駅、岩波書店、小石川税務署、中央大学理工学部などはすべて小石川邸に含まれていた。因みに小石川邸南側のこの地は、幕末には水野忠徳や竹内保徳などの勘定奉行役屋敷となった時期もあった。小石川邸全体は、明治4年(1871年)に徳川家から兵部省に移管され、同12年には東京砲兵工廠が設置された。富国強兵を推し進める兵部省の兵器工場拡張計画により後楽園廃止計画もあったが、陸軍郷山県有朋が反対し、フランスから招聘されていたジョルジュ・ルボン大尉などの尽力もあって庭園の存続が決定したといわれている。今日では北側の代地上の屋敷遺構は殆ど失われたと推定され、大泉水の水源である神田上水も絶たれた状態ではあるが、朱舜水の設計と伝えられる中国様式の円月橋や、光圀時代の徳仁堂は大正の震災や昭和の戦災の影響を受けなかった数少ない庭園構造物として大切に保存されている。

 展示室があり、庭園に関するモノが展示されていました。

 

水戸藩徳川家小石川屋敷跡出土の石製品

 水戸徳川家小石川屋敷内庭園(後楽園)の中の「見越山」、別名「台の御庭」所在推定地から発見された石製品です。
 この石製品には、表側に「御守殿」が、裏側には「天保十一庚子年九月」の文字が刻まれています。この年は、西暦1840年にあたりおそらくこの石は、門柱の台座に使われていたものと思われます。
 「御守殿」とは、三位以上の家格を持つ大名家に将軍の娘が嫁いだ時に、女性本人や住まいである建物などを呼ぶ名称です。現存する「御守殿」に関わる建築遺構としては、東京大学の御守殿門、通称「赤門」が良く知られています。
 水戸徳川家に関わる「御守殿」としては、第8代藩主の斉脩に嫁いだ、第11代将軍家斉の娘・峰姫が有名です。

小石川後楽園の歴史

 小石川後楽園は、水戸初代藩主 徳川頼房のときに、将軍家から小石川に宅地を賜ったことが創設の瑞緒である。それは寛永6年(1629年)のことであって、『水戸紀年』には同年2月1日に徳川秀忠から7万6,689坪(25万3,500m2)を与えられたむねが記されている。

 当初7万6,000余坪にて邸館と園地の建設が計画されたものであるが、現在残っている後楽園(内庭と後園)の区域約2万坪のほかに、5万坪を超える土地を占めていたのであり、その計画は甚だ雄大なものであった。

 水戸家2代の光圀が頼房の跡を相続したのは寛文元年(1661年)で、元禄3年(1690年)に隠居するまでの30年間において庭園は大いに整備された。寛文5年(1665年)光圀は明の遺臣 朱之瑜(舜水)を江戸に招聘し、その死去まで18年間師事した。舜水は故国にある先祖のことを想って光圀の好意を容易に受けなかったが、光圀の懇諭によって、やむを得ず江戸に居を定めた。

 後楽園の創設から第5代藩主の時代までの変遷を詳細かつ正確に記述した『後楽紀事』は、源信興、元文元年(1736年)の著作であって、最も貴重な文献である。著者 源信興は、後楽園の成り立ちについて将来疑惑が起こったりしないように正確を期して書き残し、後楽園の絶勝たる所似の十分の一でも子孫に知らせたいのだ……との意気込みで記述している。

 弘化元年(1844年)から、第10代慶篤は藩主の職にあった。天保の改革のあと、内外事情は騒然とし、安政大地震等の災害が起り、桜田門外の変等、水戸藩もにわかに動揺する。そのような世和に従って後楽園も変化していかざるを得なかったのである。

特別史跡及び特別名勝 小石川後楽園

 「後楽園」は、寛永6年(1629年)2月1日常陸水戸藩初代藩主徳川頼房が幕府から76,689坪(253,500m2)の土地を拝領し、そこに屋敷を設けて上屋敷(明暦の大火以前は中屋敷)とした小石川邸の附属庭園である。
 庭園は頼房が京都から徳大寺左兵衛を招き作庭したともいわれており、江戸時代初期にはじまった廻遊式庭園の、江戸における先駆的な事例であり、江戸の風土と大名の生活様式とが関わりあって発達した「大名庭園」の原点に位置する庭園である。「後楽園」の園名は、2代藩主光圀の時代に、宋の范希文(沖淹)が記した「岳陽楼記」にある「其必日先天下之憂而憂、後天下之樂而樂歟(其れ必ず天下の憂に先ちて憂へ、天下の樂に後れて樂しむと日はんか)」のいわゆる「先憂後樂」から引用されたものである。
 大正12年(1923年)3月7日当時の史蹟名勝天然紀然物保存法に基づき内務大臣により京都の西芳寺庭園や天龍寺庭園とともに史蹟及び名勝に指定された。更に昭和27年3月29日付で文化財保護法に基づき文部大臣により京都の慈照寺(銀閣寺)庭園や醍醐寺三宝院庭園などと共に庭園の国宝ともいうべき「特別史跡及び特別名勝」に指定された。

特別史跡 特別名勝 小石川後楽園

 江戸時代初期、寛永6年(1629年)に水戸徳川家の祖である頼房が、江戸の屋敷の後園として造ったもので、2代目藩主の光圀の代に完成した庭園です。光圀は造園に際し、明の儒者である朱舜水の意見をとり入れ、中国の教え「(士はまさに)天下の憂に先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から後楽園と名づけました。
 庭園は池を中心にした「回遊式泉水庭園」になっており、随所に中国の名所の名前をつけた景観を配し、中国趣味豊かなものになっています。そして、これらによって湖・山・川・田園などの景観が巧みに表現されています。
 この地は元々小石川台地の先端にあり、神田上水の分流を引き入れ造園されました。また光圀の儒学思想の下に造園されており、明るく開放的な六義園と好対照をなしています。
 なお、後楽園は昭和27年3月、国の文化財保護法により特別史跡及び特別名勝に指定されています。特別史跡と特別名勝の二重指定を受けているのは、都立公園では浜離宮とここの2つだけです。全国でも京都の鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、醍醐寺三宝院の5ヶ所だけです。

(終わり)

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