かつては城塞があったとされる「本郷城」~根津神社~

 東京大学周辺には「根津神社」(東京都文京区)がありました。

 

 

 

 日本武尊が千駄木の地に創建したと伝えられている。現在地は江戸時代、甲府宰相・松平綱重の山手屋敷跡であり、のちに6代将軍となる徳川家宣の誕生の地であった。5代将軍・徳川綱吉は家宣の産土神として宝永3年(1706年)に千駄木にあった社をこの地に移して、社領500石を附し、権現造の社殿を造営した。
 社殿は拝殿・本殿と両者を接続する幣殿(相の間)からなり、しかも一つの屋根でまとめ、権現造の完成された姿をみせている。拝殿前に唐門を配し、その左右から透塀で社殿を囲んでいる。唐門前方の楼門を含め、権現造神社建築様式の旧規を示すものとしてすべて国指定重要文化財である。
 祭神は須佐之男命、大山咋命、誉田別命、大国主命、菅原道真公である。
 境内には「家宣の胞衣塚」(区指定民族文化財)、「寒の大神碑」などがある。



 境内を散策してみると、「庚申塔(六基・根津神社境内)」がありました。

 ここに六基の庚申塔がある。道の辻などに建てられたものが、明治以後、道路拡幅などのため、根津神社に納められたものである。
 正面から左回りに刻まれた像、銘文を見ると、
 ①青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申(一六六八)・駒込村・施主十五名
 ②観音像・庚申供養・施主十二名
 ③日月瑞雲・青面金剛・鬼・元禄五壬申(一六九二)施主二十六名
 ④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(一六六0)願主一名
  ⑤梵字・庚申供養・寛永九年壬申(一六三二)・都島□馬米村施主七名
  ⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主十名
   宝永永六己丒(一七0九)  (□は欠けた文字)
 この中で、⑤の庚申塔は、寛永9年(1632年)の建立で、区内の現存のものでは最も古い。都内で一番古いのは、足立区花畑にある元和9年のもので、これより9年前の建立である。青面金剛は、病魔・悪鬼を払う庚申信仰の本尊として祭られる。猿は庚申の神の使いとされ、見ざる・言わざる・開かざるの三猿は、そのようなつつしみ深い生活をすれば、神の恵みを受けられるとされた。
 庚申信仰は中国の道教から生まれ、60日ごとにめぐる庚申(かのえさる・十干十二支の組合わせ)の夜は、人がねむると、三戸の虫がその人の体からぬけて天に昇り、天帝にその人の罪を告げて命を縮めると説かれた。これが仏教と融合してわが国に渡来し、古来の天つ神を祭るおこもりの習慣と結びついた。
 江戸時代に、特に盛んになった民間信仰で、庚申の夜は講の当番の家に集り、般若心経を唱え、和やかな話合いで一夜を過した。また、祭神も猿田彦神、塞の大神=道祖神であるとの説もある。

 鳥居が続くところを歩いていきます。

 

 その間はこんな感じ。

 

 さらに、その途中には「徳川家宣胞衣塚」がありました。

 6代将軍家宣の胞衣を埋めたところと伝えられ、十数箇の割り石が雑然と積み重ねてある。
 この根津神社の境内は、もと5代将軍綱吉の兄綱重(家光の第二子)の山手屋敷(別邸)で、綱重の長子家宣は寛文2年(1662年)4月5日ここで生まれた。
 胞衣とは、胎児(母体の中の子)を包んだ膜と胎盤をいう。われわれの祖先が、胞衣を大切に扱ったことは、各地の民間伝承にある。例えば、熊野では大石の下に納めたと伝えられる。関東では、家の床下や入口の敷居の下に埋めたといわれ、また屋敷の方角をみて埋めるという所もあった。
 一方上流の階層では、胞衣塚を築くことが早くから行われた。愛知県の岡崎には、徳川家康の胞衣塚がある。
 この胞衣は誕生の敷地内に納められた。徳川家の他のものとくらべ、形式が素朴であるなど、将軍の胞衣塚ながら庶民の民俗の理解の上で貴重なものである。
 塚正面には、明治14年に建てられた『胞衣塚碑』がある。また、家宣の産湯の井戸と伝えられるものが、社務所の庭にある。
 家宣が綱吉将軍の後継ぎとなり江戸城に入ると、屋敷跡に家宣の産土神(氏神)である根津神社を移し、華麗な社殿が綱吉によって建てられた。

 

(続く)

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