かつては城塞があったとされる「本郷城」~東京大学周辺(下)~

 東京大学(東京都文京区)は広大です。東大の周りをぐるっと周るのも結構時間がかかり、後半戦です(笑)。
 ちょっとした雰囲気のある建物があって、その建物は「弥生美術館」でした。

 弥生美術館の門壁には、「旧向ヶ丘弥生町」(昭和40年までの町名)の説明板がありました。

 江戸時代は、御三家水戸藩の中屋敷であった。明治5年、町屋ができて向ヶ丘弥生町となづけられた。
 町名は、水戸家9代斉昭が屋敷内に建てた歌碑からとられた。
 「文政十余り一とせといふ年のやよいの十日……名にしおふ春に向ふが岡なれば 世にたぐひなきはなの影かな」
 明治17年、ここの貝塚から発見された土器は、町名をとり弥生式土器と命名された。

 東大と弥生美術館の挟んだ通りは、「暗闇坂」(本郷7丁目と弥生2丁目5の間)と呼ばれていたそうです。

 

 江戸時代は、加賀屋敷北側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったのであろう。
 江戸の庶民は、単純明快にこのような坂を暗闇坂と名づけた。23区内で同名の坂は12か所ほどある。区内では、白山5丁目の京華女子高校の裏側にもある。
 この坂の東側鹿野氏邸(弥生2-4-1)の塀に、挿絵画家、高畠華宵の記念碑がはめこまれている。華宵は、晩年鹿野氏の好意でこの邸内で療養中、昭和41年7月に亡くなった。大正から昭和にかけて、優艶で可憐な画風で若い人たちの大きな共感を呼んだ。

 さらに進んでいくと、東大の門付近に「境稲荷神社と弁慶鏡ヶ井戸」(台東区池ノ端1-6-1-13)がありました。

 境稲荷神社の創建年代は不明だが、当地の伝承によれば、文明年間(1469~1486年)に室町幕府第9代将軍足利義尚が再建したという。「境稲荷」の社名は、この付近が忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であることに由来し、かつての茅町(現、池ノ端1・2丁目の一部)の鎮守として信仰をあつめている。
 社殿北側の井戸は、源義経との従者が奥州へ向かう途中に弁慶が見つけ、一行ののどをうるおしたと伝え、『江戸志』など江戸時代の史料にも名水として記録がある。一時埋め戻したが、昭和15年にふたたび掘り起こし、とくに昭和20年の東京大空襲などでは多くの被災者を飢渇から救った。井戸脇の石碑は掘り出した際の記念碑で、造立者の中には当地に住んでいた画伯横山大観の名も見える。

 その付近には「境稲荷神社」がありました。

 

文明年間足利9代将軍義尚公により創祀されたと伝えられ忍が岡と向が岡の境に鎮座するところから境稲荷と称され両村の総鎮守であった
寛延3年隣地岡上の松平邸より出火した火災により社殿をはじめ義尚公自筆の扁額や重宝古記録とも焼失したが別当慈海によって再建された
現参道口鳥居の扁額はこの時拝殿に奉納された半井大和守筆の額字を写したものである
古歌「忍ぶ岡向ふる岡の境なる神のやしろは松の下谷」
その後明治28年湯島切通坂鎮座の宝剣稲荷を合祀している
昭和20年4月戦禍を受け現在の本殿拝殿鳥居並に社務所は平成5年の造営である
境内本殿裏の井戸はその昔の当社別当原泉山三光寺の名称からも非常に古くからの湧水であることが知られ江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」と在り名水をもって知られている

 この辺りは、上野公園の近くになるみたいです。

 さらに、東大周りを歩いていくと、「無縁坂」と呼ばれる坂がありました。

 『御府内備考』に、「称仰院前通りより本郷筋へ往来の坂にて、往古 坂上に無縁寺有之候に付 右様相唱候旨申伝……」とある。
 団子坂(汐見坂とも)に住んだ、森鴎外の作品『雁』の主人公岡田青年の散歩道ということで、多くの人びとに親しまれる坂となった。その『雁』に次のような一節がある。
 「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れこむ不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。……」
 坂の南側は、江戸時代四天王の一人・康政を祖とする榊原式部大輔の中屋敷であった。坂を下ると不忍の池である。
  不忍の 池の面にふる春雨に 湯島の台は 今日も見えぬかも
    岡 麓(本名三郎・旧本郷金助町生まれ 1877~1951・墓は向丘二丁目高林寺)

 無縁坂辺りは、「旧 湯島両門町」(昭和40年までの町名)だったみたいです。

 むかし、湯島郷に属した。講安寺門前、称仰院の門前町として開かれた町屋である。
 明治2年、この二つを併せて、両寺の門前なので、湯島両門町と名づけられた。
 南側は江戸時代の榊原康政(徳川家康四天王の一人)の屋敷跡。明治になって桐野利秋の邸宅となり、西郷隆盛とともに桐野が鹿児島に帰ると、三菱の初代岩崎弥太郎の本邸となった。現在は最高裁判所の研修所である。
 講安寺(土蔵造の本堂で有名)の前の坂は、無縁坂である。数年前まで格子戸のある木造の家があった。
  「岡田の日々の散歩は、大抵道筋がきまっていた。寂しい無縁坂を降りて……」(森鴎外『雁』)

 車の行き交う通りに出たところで、「旧 本富士町」(昭和40年までの町名)の説明板がありました。

 徳川家康の江戸入り後、この地を藤堂高虎に賜り、後元和の頃(1615~24年)加賀藩主前田利常に賜った。
 その後、加賀屋敷の東部を富山、大聖寺の両前田支藩の屋敷とした。
 明治4年、三邸とも文部省用地となった。明治5年、初めて町名を定め、駒込富士浅間神社が元ここにあったので本富士町とした。
 町名の大部分は東京大学の構内である。加賀屋敷の遺跡は、現在三四郎池(旧前田家の庭園育徳園の心字池)と赤門(御守殿門)などがある。
 “加賀門をも一つつける御注文”(古川柳)
 赤門は家斉将軍の娘溶姫が、前田斉泰に嫁入りしたときに造られた。

(続く)

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