かつては城塞があったとされる「本郷城」~東京大学周辺(上)~

 「本郷城」があったとされる東京大学(東京都文京区)周辺を歩いていたら、周辺には様々な通りや坂などがありました。

 「本郷三丁目」駅から大通りを東京大学へ向かう途中には、「別れの橋跡・見送り坂と見返り坂」(本郷4-37光本郷通り)がありました。

 「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと……いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を掘出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり……太田道灌(1432~86年)の頃罪人など此所よりおひはなせしかば、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。
 この前方の本郷通りはややへこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた。『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを卯す、其くはめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。
 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。
 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。

 東大の周辺を歩いていると、「「青年」の散歩道」という通りがありました。

 

 さらに歩いていきます。
 根津神社近くの坂は、「新坂(権現坂・S坂)」(文京区根津一丁目21と28の間)と呼ばれる坂がありました。

 

 本郷通りから、根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため、新坂と呼んだ。また、根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。
 森鴎外の小説『青年』(明治43年作)に、「純一は権現前の坂の方に向いて歩き出した。・・・右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲、左は出来たばかりの会堂(注・教会堂は今もある)で、・・・坂の上に出た。地図では知られないが、割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。・・・」とある。
 旧制第一高等学校の生徒たちが、この小説『青年』を読み、好んでこの坂をS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮橉に住んだ森鴎外の命名である。
 根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706年)である。5代将軍徳川綱吉が、綱豊(6代将軍家宣)を世継ぎとしたとき、その産土神として、団子坂北の元根津から、遷座したものである。

 根津神社付近では、「旧 根津須賀町」(昭和40年までの町名)の説明板を見かけました。

 もと、甲府宰相徳川綱重(3代将軍家光の子で5代将軍綱吉の兄)の屋敷があった。綱重の子の綱豊(6代将軍家宣となる)がここで生まれ、団子坂上にあった根津神社が産土神(生まれた土地の神)であった。綱豊は綱吉将軍の跡継ぎとなり江戸城に移った。
 綱吉は、宝永3年(1706年)根津神社を甲府屋敷の跡に移し、華麗な社殿を造営した。また町屋が開かれ、根津社地門前と称した。明治2年、町名を根津須賀町とした。
 根津の名の由来には、ねずみのいわれ、台地の根にあって舟の泊まるところなどの各説がある。
 須賀は、根津神社の祭神素戔嗚尊が、出雲の須賀に宮居を定め、わが心須賀須賀須といわれたによると。

 近くには、「サトウハチロー旧居跡」(弥生二丁目16)があったみたいです。

 本名は佐藤八郎(1903~1973)詩人・童謡作家。
 小説家佐藤紅緑の長男として、明治36年(1903年)市谷薬王寺前町に生まれた。大正5年(1916年)小日向台町小学校を卒業し、早稲田中学校に入学した。この頃から詩を書きはじめ、16歳の時西条八十に師事し、詩を学んだ。大正10年(1921年)「金の船」や「少年倶楽部」などに童謡を発表し、大正15年(1926年)に詩集「爪色の雨」を発刊、詩人として歩みはじめた。
 昭和12年(1937年)上野桜木町から、向ヶ岡弥生町に移った。週1回の詩の勉強会“木曜会”が開かれ、「木曜手帳」が刊行されたのも、この地である。
 昭和52年(1977年)自宅の一階を改装して記念館が開館され、原稿や愛用品が展示されたが、記念館は平成8年(1996年)岩手県北上市に移った。
 庭の一隅に、童謡「ちいさい秋みつけた」にうたわれた“はぜの木”があったが、平成13年(2001年)10月礫川公園内(春日1-15)に移植された。

 東大と東大を挟んだ道では、「狐白堂」という不思議・あやかし・ファンタジー系の古書店がありました。

(続く)

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