周辺にはちょっとした公園があった「滝野川城」

 城巡りに東京都北区を歩きました。
 JR「王子」駅から徒歩約10分のところに「金剛寺」があります。

 戦国時代、豊島氏の一族だった滝野川氏の居城「滝野川城」があったそうです。本家の豊島氏は石神井城などを扇谷上杉家の武将・太田道灌に攻撃され滅亡し、滝野川氏も本家同様に滅んでしまったといいます。

 滝野川城はなく、跡の様子もわかりませんでした。

 石橋山の合戦で敗れた鎌倉幕府初代将軍の源頼朝が、一旦安房へ退き、体制を立て直して、この地に陣を敷き、ここから鎌倉政権をとったともいわれています。

源頼朝の布陣伝承地

 治承4年(1180年)8月、源義朝の3男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。滝野川・板橋を経て、府中6所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することになるのです。
 この途次の10月、源頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています。松橋とは、当時の金剛寺の寺域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。
 この地域は、弁天の滝や紅葉の名所として知られていました。現在、金剛寺が紅葉寺とも呼ばれるところに、この頃の名残がみられます。

 

 周辺をブラブラしてみると、音無もみじ緑地(公園)がありました。

 

松橋弁財天洞窟跡

 もともとこの辺りは、石神井川が蛇行して流れていた場所でした。左の絵は、『江戸名所図会』に描かれた「松橋弁財天窟 石神井川」ですが、ここでは「この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。」とこの辺りの景色を紹介しており、春の桜、秋の紅葉、殊に紅葉の名所として知られていたことがわかります。画面を見ると、岩屋の前に鳥居があり、その横に松橋が描かれています。水遊びをする人や茶店も描かれ、行楽客が景色などを楽しんでいる様子が見て取れます。
 崖下の岩屋の中には、弘法大師の作と伝えられる弁財天像がまつられていました。このため松橋弁財天は岩屋弁天とも呼ばれていました。『新編武蔵風土記稿』によると、この弁財天に源頼朝が太刀一振を奉納したと伝えられていますが、すでに太刀も弁財天像も失われています。
 また、現在都営住宅が建っている付近の崖に滝があり、弁天の滝と呼ばれていました。旧滝野川村付近には滝が多く、夏にこの辺りの滝で水遊びをして涼をとることが江戸っ子の格好の避暑となっていて、こうした様子は広重の『名所江戸百景』や『東都名所』をはじめ多くの錦絵に描かれました。松橋弁財天の辺りは四季を通して多くの人で賑っていたのです。
 滝は昭和初期には枯れていたようですが、像を納めていた岩屋は、昭和50年(1975年)前後に石神井川の護岩工事が行われるまで残っていました。金剛寺境内をはじめ、区内には松橋弁財天へ行くための道標がいくつか残っており、当時の名所であったことをうかがわせます。

 川沿いを「王子」駅方面へと向かうと、音無さくら緑地(公園)がありました。

この緑地は、石神井川の旧川を利用して出来たものです。ここには、サクラや、エゴノキ、コナラ等が植えられています。また、昔からの天然河岸も一部残っており、湧水を利用した流れもあります。そわやかな散策をたのしんでください。

 公園内は、ちょっとした散策ができる雰囲気がありました。

音無さくら緑地内旧石神井川の自然露頭

 音無さくら緑地(王子本町1丁目6番地先)は、まだ石神井川がくねくねと蛇行して流れていた頃の旧流路につくられたものです。
 皆さんの正面にある崖地は、川の蛇行による浸食作用が最も大きくなる部分で、地形学ではこのような地形を攻撃斜面と呼んでいます。
 視線を下げて、地下水がポタポタしみだしている縞状の部分より下方を注意深く観察してみますと、赤い酸化鉄に染まった砂質粘土の地層中に貝殻の化石を見つけることができるかもしれません。
 この化石がはさまっている地層は地質学的には「東京層」と呼ばれる部分で、今から12~13万年前の下末吉海進により、現在の東京都付近が海底となった頃に形成されたものです。
 明治13年(1880年)、当時東京大学に地質学・古生物学の教授としてドイツから来日していたブラウンスが王子を訪れ石神井川沿いを調査しました。かつてこの場所のすぐ北には穀物を脱穀する水車場があり、その露頭から多くの化石を採集しました。右の図はその時の調査をまとめた論文に掲載されたスケッチの一部です。
 これまで、地層を観察するには、自然に形成された河岸の断面を見ることが基本とされてきました。しかし、近年都市化が進むにつれて岸辺を保つことがしだいに難しくなりました。このような自然の河岸が露頭している場所は東京区部では非常に珍しく、こうした地層を観察できる場所は学術的にも教育的にも大変貴重な場所といえます。

 公園内には、石でできた橋「桜橋」もありました。

 

さくら橋

 このさくら橋は昔ながらの技法と材料を用い、先人の知恵をそのままに石と石のせり合わせによって、全体を支えている石組構造の橋です。この様な構造のアーチ式の石橋は、日本では約500年前から造られるようになりました。この構造の石橋は木橋に比べ丈夫であったため、長崎の眼鏡橋に代表されるように永い間人々の生活を支えてきました。しかし、その後の技術と材料の発達により、さらに丈夫な橋が造られるようになり、アーチ式の石橋を新たに架けることは少なくなりました。そのため、現存するのはわずかであり、この橋は大変貴重な橋の一つであります。

 さらに、「緑の吊橋」がありました。

 歩くと揺れるんです(笑)。

音無渓谷

 石神井川は、東京都小平市花小金井南町付近を源とし北区内で隅田川に合流するまでの延長25.2kmの河川です。
 一般には、石神井川の水源としては、石神井公園内の三宝寺ケ池が有名ですが、周辺の市街地化により湧水が減少したため水量は、一般家庭からの排水も少なくありません。
 石神井川は大部分が台地上を流れているため、ゆるやかな流れの区間が多いのですが、板橋区加賀から下流になると渓谷状となり、水流もかなり急になります。そのため、昔はこの一帯の石神井川は滝野川とその名を変えて呼ばれ、飛鳥山のあたりでは、この地を愛した徳川吉宗のふるさとにちなみ、音無川とさらに名を変えて呼ばれていました。
 ごうごうと音をたて、流れる川を音無川と読んだところに、この地と将軍吉宗との深い関係が読み取れます。
 吉宗は「春は花、秋は紅葉」の例えにならい、飛鳥山に桜を植えさせる一方で、石神井川の両岸に紅葉を植えさせました。
 文化分政の頃には、滝野川の紅葉は江戸中に知られ、江戸名所図絵にも「楓樹の名所として其の名遠也に高し」と述べています。
 この紅葉は維新のころ、薪にして売られるところでしたが、羽鳥了苗という人がたまたま来あわせ、これを惜しまれて残らず買い取り、このまま保存することになり、明治大正にかけて、滝野川の地は東京市民の遊覧の地として賑わいました。
 現在でも、この音無さくら緑地には、当時の音無渓谷の姿をかいまみることができます。

 この場所に緑の吊橋が初めてかけられたのは、昭和29年のころでした。その後台風により崩壊し、昭和55年に新橋に変わりましたが、平成6年には緑地と調和した、現在の吊橋となりました。

 この後、「王子」駅近くの飛鳥山公園へと向かいます。滝野川氏の出城「飛鳥山城」があったとされています。

 

(続く)

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