金王丸の流れをくむ渋谷氏の居城として戦国時代まで続いた「渋谷城」(跡)

 渋谷の金王八幡宮(東京都渋谷区渋谷3丁目15)にいってきました。

 やや高台になっている金王八幡宮が、渋谷城の跡地だとされているそうです。

 渋谷城は、八幡太郎の通称で有名な源義家が河崎基家に渋谷を与え、その孫にあたる金王丸が渋谷城の地で育ち、源義朝(頼朝の父)に仕え、義朝が平治の乱(1160年)に敗れ、再送中に殺されると、自身は京都へ向かい僧となって主君を弔ったとされるそうです。
 その後も渋谷城は、金王丸の流れをくむ渋谷氏の居城として戦国時代まで続いたそうです。大永4年(1524年)に後北条氏2代目の北条氏綱が江戸城を攻略すると、渋谷氏も渋谷城を捨てたとされているそうです。

 

 境内には、「渋谷城砦の石」と呼ばれるものがありました。

 

 このあたり一帯の高台は、平安時代末期から澁谷氏一族の居館跡で、東に鎌倉街道(現、八幡道)、西に澁谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、館を囲んでいるうえ、かつては数ヵ所に湧水があるという好条件を備えていました。しかし、その館いわゆる渋谷城は大永4年(1524年)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、澁谷氏が高輪原で北条氏と交戦中、北条の一軍により襲われ焼き払われてしまいました。

 金王八幡宮の由来について、

金王八幡宮は、寛治6年(皇紀1752年、西暦1092年)渋谷氏の祖 河崎基家により鎮祭され、基家の子重家が鎌倉街道沿いの要所であるこの地に館を構えて居城として以来、渋谷氏の氏神として尊崇されました。
渋谷重家には嫡子がなく当神社に祈願をしたところ、大神の御神徳により渋谷金王丸常光のちの土佐坊昌俊を授かりました。金王丸の活躍は平治物語・吾妻鏡などにみられる通りであります。当神社は当初「渋谷八幡宮」と申しておりましたのを、金王丸の名声に因み「金王八幡宮」と称するようになりました。
また、境内の金王桜(渋谷区指定天然記念物)は、頼朝が金王丸を偲び植えたもので、一重と八重が混じって咲く珍しい桜で、江戸三名桜に数えられました。
江戸時代には、竹千代(徳川家光)の教育役の青山伯耆守忠俊と乳母の春日局が三代将軍就任を当神社に祈願し、その願いが成就したのは大神の神慮によることと、現在の社殿及び神門(渋谷区指定文化財)を寄進されました。
時代は変わりましたが、現在も青山・渋谷の氏神様として数多の崇敬を集めております
。」

 金王八幡宮社殿及び門 附 渡り廊下について、

 社記によると、この八幡は渋谷氏の祖、河崎基家が寛治6年(1092年)に創建したといわれます。
 現在の社殿は、徳川家光が三代将軍に決定したとき、守役の青山忠俊が家光の乳母春日局とともに、慶長17年(1612年)に造営を開始したものです。その後たびたび修理されましたが、江戸初期の建築様式をとどめている貴重な建物です。
 門は、明和6年(1769年)と享和元年(1801年)に造られたとする二説があり、江戸中期の建立にはちがいありませんが、その後何度かの修理を経て今日に及んでいます。
 このあたり一帯の高台には、渋谷氏の居館があったと伝わり、東に鎌倉道、西に渋谷川が流れ、北東には低い谷地形(黒鍬谷)があって、城館を囲んでいるうえ、かつては数か所に湧泉があるという好条件を備えていました。
 しかし、その城館は大永4年(1524年)、北条氏と上杉氏の合戦のとき、北条氏の一軍に焼き払われてしまったということです。
 平成22年には、社殿に附属してその価値をいっそう高める建造物として、渡り廊下が附として追加指定されました。

 算額(嘉永3年奉納)(安政6年奉納)(元治元年奉納)

 古代中国から日本に伝えられて、独自の発達をとげた和算の絵馬です。
 算額は、自ら作った問題を絵馬に記し、それを見た者が解答を試みる方式のもので、神社や寺院に奉納されました。添えられた図の多くは着色されており、装飾的な傾向から目立ちやすく、学業成就の祈願のほかに難問を提起して名を広めようとする意図もあったと考えられます。
 この三点は、武家地域と商業地域の接点であった宮益町付近の在住者により奉納されたことが注目されます。そのうちの安政6年(1859年)の一点は、西条藩の武士により奉納されました。また、元治元年奉納の算額は、扇面の形をしたたいへん珍しいものです。

 絵馬「大江山鬼退治之図」その一 「大江山鬼退治之図」その二

二面とも青山百人組から延宝3年(1675年)、金王八幡宮に奉納されたもので、室町時代に流布した「御 草紙」に収められている「大江山の酒呑童子」に基づく絵馬です。
 この鬼退治物語を描いた絵馬は、各地の社寺に奉納されていますが、「討ち入り場面」(その一)と「鬼退治場面」(その二)の二枚の絵に表現したものは作例としても珍しく、また、細密な筆致と豊かな色彩から見て絵画としても優品です。
 大きさは二面とも縦78.5×横105cmです。

 境内には、金王桜もありました。春になれば、綺麗な桜が楽しめそうですね。

 長州緋桜という種類の桜といわれ、花弁は5~7枚ですが、雄しべが花弁化したものも交じっていて、一枝に一重と八重の花が入り混じって咲く大変珍しい桜です。また、一名を憂忘桜とも呼称されていたようです。
 この桜については、さまざまな伝承がありますが「金王神社社社記」によれば、源頼朝の父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節をしのび、頼朝が金王丸の名を後世に残そうとして、鎌倉亀ヶ谷の館から金王丸ゆかりのこの地に移植したものとされています。
 また、江戸時代に盛んに作られた地誌にも紹介され、郊外三名木のひとつとして有名であったことから、代々実生により植え継がれてきた系統の確かな桜と考えられます。

 ちなみに、私が行った1月11日(日)では、境内に「茅輪神事」がありました。

 この「茅輪神事」の起源として、

神代の昔素戔嗚尊が旅の途中土民の蘇民将来に一夜の宿を求められた蘇民将来は貧しい身であったが快くお泊めした
年を経て再び訪れ「若し天下に悪疫が流行した際にはちがやをもって輪を作りこれを腰につけておればそれを免れるであろう」と教えられたこの故事に基づき茅輪を作りこれをくぐれば災厄を免れるという信仰が生じた
〈唱え言葉〉
蘇民将来・蘇民将来 思う事みなつきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓いつるかな

 

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