水戸を歩きました! ~銅像巡り~(4)

 ここからはちょっと銅像巡りを紹介します。

 黄門さん通り三の丸歴史ロード水戸城址通りなどなど、水戸市のあらゆるところに、銅像がありました。

 

(写真左から=徳川頼房公、徳川斉昭公、写真下=安積澹泊の像)

 銅像巡りの途中から、よくよく見ると銅像の土台の側面に説明があるのに気がつきました(笑)。

徳川斉昭公

 

 徳川斉昭公(烈公)は、文政12年(1829年)に30歳で第9代水戸藩主となり、弘道館創設や偕楽園の造園に情熱を傾ける一方、蝦夷開拓の計画を幕府に訴えるなど斬新的な藩主であった。ペリー来航という事件が起き、幕府は斉昭公を海防参与に抜擢したが、「安政の大獄」により水戸城に永蟄居を命ぜられたまま、城中で61歳で没した。

徳川慶喜公

 

 徳川慶喜公は、水戸藩第9代藩主・斉昭公の7男として天保8年(1838年)江戸小石川の水戸藩邸で生まれた。幼名を七郎麻呂と称し幼少の頃に水戸に移され、弘道館で武芸や学問に励み厳しく養育された。徳川第15代最後の将軍となったのは30歳の時である。「封建」から「近代」へ変貌する混乱の時代の渦中に身を投じ、幾多の政治的困難を乗り越え、日本を内戦の危機から救うため大政奉還を成し遂げた。余生は静岡や東京で暮らし、77歳で生涯を閉じた。

本間玄調

 

 水戸藩医、小川村(現:東茨城郡小川町)に生まれ、棗軒と号した。父祖の始めた稽医館に学び。17歳で原南西陽に入門、後に杉田立郷・革岡青洲・蘭医シーボルトなどに師事し、漢洋折衷の学識と医術を修めた。斉昭の招きによって弘道館医学館教授に転じてからは、講義・治療・著述などに活躍し、水戸藩医政の第一線を担い、数多い著書は現代医学徒にも尊ばれている。

会沢正史斎

 

 会沢正史斎は、藤田幽谷の弟子として学問を深め、史館に入って修史に携わり、後に彰考館総裁となった。幽谷から正史斎へと発展した水戸学の思想は、藩政改革の指導理念となった。特に、文政8年(1825年)に著わした「新論」は、我が国体に基づいた大改革の構想を示したもので、幕末志士達に尊王攘夷論の教科書として熟読され、長州の吉田松陰、久留米の真木和泉守などに強い影響を与えた。

 面白かったのは、「黄門さんおしゃべりパーク」にある水戸黄門の銅像。

 ボタンを押すと、黄門さんがおしゃべりを始めました(笑)。

 

 水戸黄門で知られる水戸藩2代藩主徳川光圀公が青年期より文武はもとより世情にも心を配られ人道の真理を生涯の教えとつらぬき、数々の改革と家臣領民に慈しみの心で藩政にあたった。以来63歳で引退を期に「権中納言」に任ぜられ、この官位が中国では黄門と呼ばれたことから光圀公は「水戸黄門」と尊称されるようになった。太田西山に隠居後も領内を度々巡見されその時の多くの逸話がご老公への敬愛の念から黄門さん漫遊記の素地となった。
 この水戸黄門さん像は、常陸太田の西山荘に向かって出立される姿に、そのお顔立ちから音声学的に電子合成された声で春夏秋冬の季節ごとに呼掛けられる言葉を再現したもので、市街地南北道完成記念、街の賑わい創出、観光と中心商店街の活性化へのおもいを込めて、茨城県や水戸市をはじめ多くの方々のご協力により、隣接2商店会の共同事業をもって完成し、ここ太田街道の起点に建立した。

(続く)

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