水戸を歩きました! ~水戸城跡~(1)

 9月26日(土)はいい天気になりました。私はJR常磐線の電車に乗って、茨城県水戸市に行ってきました。

 この日は、水戸黄門の黄門様でおなじみの水戸城を見にやってきました。

 水戸駅前には水戸黄門の銅像があり、黄門様助さん角さんが出迎えてくれて早速心が躍ります!

 三の丸歴史ロードを歩いていくと、何やらすごいがありました!? なんと、学校! すごいっすね。

 再び、水戸城に向かう三の丸歴史ロードを歩いていきます。

 途中の大手橋を渡ります。

 大手橋は、佐竹氏の城郭拡張によって二の丸・三の丸が築かれた時、慶長元年(1596年)にこの堀に掛けられた橋。徳川初代藩主頼房が修築してから「大手橋」と称せられた。明治元年(1868年)10月佐幕派が弘道館を占拠した時は、この橋をはさんで主力軍との間に内戦が起こった。橋は何度か修築され、昭和10年(1935年)コンクリート造りになった。

 大手橋を渡ったところに、「茨城百景・弘道館 水戸城址」がありました。

 水戸城は平安時代の末期頃、常陸大掾国香の子孫馬場資幹がこの地(現:水戸一高)に館を構えたことに始まり、後に常陸大掾となって府中(現:石岡市)に本拠を持ったことから、水戸地方も馬場氏の他に吉田氏、石川氏など大掾氏の族が栄えた。
 15世紀のはじめ(応永年間)、藤原氏の族河和田城主江戸通房が馬場氏を追放し、代わって居城した。それまでの本城の外に宿城(のち二の丸、現在茨城大学付属小、水戸二中、水戸三高)を築くなど、城郭を拡張して約160余年間水戸地方を支配したが、太田地方を本拠地として常陸水半を領した源氏の族佐竹氏は、天正18年(1590年)秀吉の小田原城攻めに功績を認められると一気に江戸氏を攻め、水戸城を占拠した。こうして54万余石を領する佐竹義宣の本城となり、城郭も一段と拡張され城下町も太田から移された商人によって栄えた。ところが秀吉の死後義宣は石田三成と結んで家康に抗したため、慶長7年(1602年)秋田へ国替えを命ぜられ、僅か13年間で水戸を去った。その後は家康の子信吉、頼宣が一時封ぜられたが、慶長14年(1609年)も第11子頼房が藩主(25万石、第3代綱條の時から35万石)となってから代々その子孫が継いだ。頼房は二の丸に居館を築き、三の丸を造り三重の濠と土塁を巡らして武家屋敷や町人街を整える一方、徳川御三家として幕府を助けたが、第2代光圀以来尊王の学風を興して天下の大勢を導き、明治維新の源流を開いたのである。

 そのまま道を進んでいくと茨城師範学校跡も。

 そして、またもや白い壁や門が、これまた学校。本当にすごいっす!

 近くに「二の丸展示館」がありました。

 

 さらに歩きます。

 そうすると、「水戸城址の大シイ」というすごく立派な木がありました。

 水戸城旧城郭の中に位置するこの大シイは、戦国時代から自生していたと伝えられ、その樹齢は約400年と推定される。
 2株のうち、1株は根回り4.1m、目通り3.3m、樹高18.6mで、もう一方は根回り6.8m、目通り4.3m、樹高20.0mである。
 一般にシイノキ(椎の木)と呼ばれる植物には2種類あり、ツブラジイとスダジイに分類され、ツブラジイは、葉が薄く小型で果実は球形で小さいのに対し、スダジイは、葉が大きく、葉質が厚く、果実は長いので区別される。ツブラジイは、主として関東南部以西四国、九州の内陸部に分布し、スダジイは、福島県、新潟県以南の主として沿岸地域に自生しているが、この大シイは2株いずれもスタジイである。
 茨城県のスダジイは、日本列島の北限に近い地域であることから、各地で天然記念物に指定されているが、一般には四方に枝を広げ、傘状になっている巨木がその対象である。それらの指定物と比較した場合、樹高においてはこの大シイは優れているが、四方に枝を張るような樹冠にはなっていない。しかし、樹木の活力は現在でも旺盛であり、他の地域のものと比較して幹囲、樹高ともに大きく、大木と言える。
 この大シイについては、平成3年に環境庁により刊行された「日本の巨樹・巨木材」にも掲載され、我が国の森林・樹木の象徴的存在として、かけがえのない価値を有する巨樹の一つに位置づけられている。
 さらに、この大シイは、水戸城旧城郭の中に存在することから、その樹齢とともに歴史的にも意義ある樹水であり、且つ古くから水戸市立第二中学校のシンボルとして伝えられてきた重要な樹木である。

(続く)

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)